武市半平太は文政12年(1829)9月27日、長岡郡吹井村の郷士の家に生まれた。本名は小楯(こだて)、通称は半平太、号は瑞山。身分は白札と言い、親戚関係にある郷士の龍馬よりも上だった。※白札は上士と下士の中間の身分。
文久元年(1860)8月に土佐藩同志の団結を計画して土佐勤王党を結成。”錦の御旗”のもとに一死報国を誓い、尊王攘夷を実行しようとした。

土佐市と須崎市を結ぶ横浪黒潮ラインを、土佐市側から中ほどまで行くと、銅像前の駐車場に出る。
銅像は昭和54年(1979)12月、募金活動によって当地に建立された。しかし、最初に建てられた銅像は、あまりにも肖像画に似ていないと不評でしたので、昭和60年(1985)に再建活動に入ったそうです。
現在の銅像は、なかなかの評判で、設置場所も以前と同じ須崎市浦ノ内。原寛山(はらかんざん)製作で、高さ約3メートルほど。
初代銅像は新しい銅像の一部に使われているそうです。
武市半平太の銅像を四方から撮影しましたこちらから。※回っているように見えます。
武市半平太の銅像裏手には「土佐勤王党血盟者と同志人名」を刻んだ石版と「土佐正気之歌」の碑がある。
※映すたらいの水かがみ  花は清香人仁義  幽閉何ぞ恥ずべけん  みよ橘は永久に咲く

土佐勤王党血盟者と同志人名

武市家旧宅と墓所
↑武市家旧宅。
↑県道247号線東側に有る案内板。
長岡郡吹井村(現高知市仁井田:五台山東側)。

国史蹟 武市半平太旧宅と墓(高知市仁井田)


奥に見える旧宅は、元は藁葺き式平家で、典型的な郷士住宅。
部屋数は6室あり、客室は8帖で柱に半平太が文字を刻んだ痕が見られる。
※現在は個人宅ですので無断で立ち入る事は出来ません。

↓立て看板より右に進むと石段があり、武市半平太資料館と瑞山神社が建てられている。
 更に奥に武市家墓所が有る。

石段上の鳥居を潜り、更に奥へ進み数段の石段を上がると武市家墓所がある。
勤王党員の手による吉田東洋暗殺後は藩内で土佐勤王党が力を持つようになった。しかし、隠居していた前藩主・山内容堂が土佐へ帰ってきてからは、一転して弾圧される立場となり、遂には瑞山も投獄された。龍馬が亀山社中を結成した慶応元年(1865)、明確な罪状のないまま獄中で切腹させられた。享年36歳。
前列中央が武市半平太の墓

武市半平太資料館と瑞山神社

墓所に続く石段の手前左手に有る武市半平太資料館。

「維新土佐勤王史」に『身長6尺、鼻が高く、あごが長くて良くととのっており、眼は異様にするどい。顔は青白く、喜怒を面にあらわさない。黒龍先生と人によばれているが、口を開くと良く通る声で話し、人の心をうつ説得力を持っている。』という意味の事が記されているそうです。
少しあごが長かったそうですが、美男子で文武に秀でていたので、月形半平太のモデルになったそうです。

初代銅像が持っていた刀。


瑞山神社

↑記念碑には、獄中で記された遺詠(笑泣録より)を刻記されている。
「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」
  ※花は清香に依って愛でられ、人は仁義を以て栄ゆ。
   幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり。




須崎市浦の内湾(武市半平太像より北北西方向)
2010年4月撮影 

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