安芸郡北川村 中岡慎太郎生家
2013年5月撮影 


中岡慎太郎生家

 慎太郎は、天保9年、この屋敷に生まれました。
現在の家は慎太郎没後百年際にあたって、昭和42年11月17日(慎太郎の命日)に復元公開されたものです。
 茅葺き屋根の 肘屋建築。庄屋には必ず勘定の間があり、玄関の式台を上り、次の間、客間は公の間。
その他の奥の間を私生活の間としたと言われ、裏にあるナツメの木の切り株は慎太郎がよく登って遊んだ木と伝えられています。

昭和43年県指定史跡に認定





 中岡家はもと土佐郡領家村(現高知市鏡)の大庄屋で平助を三代襲名していましたが、後が絶えたので、高知廿代町の庄屋寺石正道の三男が長岡郡上倉郷(現南国市上倉)の庄屋中岡家を嗣いで要七と称しました。
 要七の婿養子となった二代目要七は、吾川郡西畑村(現高知市春野町西畑)庄屋、吾川郡八田村(現いの町八田)庄屋を経て、文政七年(1834年)北川郷の大庄屋となりました。
この時に開かれた屋敷がこの柏木の屋敷であり、中岡慎太郎もこの屋敷で生まれています。
 慎太郎の死後、この家は明治13年5月29日付けで安芸郡北川郷柏木村居住、中岡照久から、同郷野友村居住前田弥五郎に、前田氏は更に野友の井津氏に転売しています。
また井津氏は更に安岡亀弥に転売、安岡氏は田野町ヨケに移築、料理屋“朝日楼”を経営していましたが、おしくも明治40年の台風のため流失しました。
 現在の建物は、村内にあった売渡証文や、関係縁者の証言、郷土史家の安岡大六・前田年雄両氏の考証を得て、およそ360万円で昭和42年11月17日に復元落成されました。
大庄屋の仕事
一、さまざまな法令を村民に知らせること
一、親孝行する人や長生きしている人にご褒美を出すための手続き
一、洪水や火災など、非常事態が起こったときの取扱
一、罪人や不審者に対する注意、遍路等差配のこと
一、田地の売買や質入れするときの手続き(登記事務)
一、手紙や荷物の受付と発送する人夫などの手配(郵便運送事務)
一、年貢米の取り立て、年中行事で必要なお金の取り立て(税務)
一、村人からの控訴や罪人の取調(裁判)

その他、風俗の取り締まり、殖産興業、普請、宗門改め等に至るまで、
あらゆる事務を取り扱っていました。


向学の道

安政元年(1854年)、中岡慎太郎17歳。
ペリーが初めて浦賀に来航した翌年であるこの年、高知城下だけであった藩校が郡で初めて設置されると、慎太郎はただちに田野学館に近隣の有志が多く通っており、清岡道之助、その弟・半四郎らをはじめ、多くの有志と交わりを持つことができた。
 中岡慎太郎が島村策吾の塾や田野学館へ通学するときに通った道は現在「中岡慎太郎・向学の道」と呼ばれている。

中岡慎太郎館



中岡慎太郎先生頌徳碑
 中岡慎太郎が大庄屋見習いをしていた時飢饉があり、郷中の小島、和田、平鍋の三部落の住民に餓死者がでるなど特に難渋した。
 そこで慎太郎は四方に救済の奔走するも食糧が足りず、非常に備えた貯蔵米の官庫を開くことを決意し、高知城下に出向き国老桐間蔵人の門前で一夜を明かし嘆願する。その慎太郎の必死の陳情は、蔵人の心を打ち即座に官庫を開くことの許下を得ることとなり尊い村民の命を救った。
 村人たちは、慎太郎の善行の感激を忘れることができないとしして明治44年(1911年)この頌徳碑を建てた。
                       暮雪書


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