最終更新日 2012年11月
長宗我部元親は、天文8年(1539年)に国親の嫡男として岡豊城(現:高知県南国市岡豊町八幡)で生まれる。
幼い頃は色白でおとなしい子だったので「姫若子」と呼ばれるが、永禄3年(1560年)5月、22歳で初陣を迎えた若武者長宗我部元親は父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる長浜城に攻め入り、見事打ち破った。この戸ノ本の合戦の戦い振りから「鬼若子」と呼ばれるようになった。また後には「土佐の出来人」とも言われた。
同年6月に父国親が死亡した。その跡を継ぎ、15年で土佐を統一、その後10年をかけて天正13年(1585年)に四国全土を掌握したが、同年8月には豊臣秀吉の軍門に降り、土佐一国のみ領有を許された。
天正16年(1588年)長宗我部元親は居城を、現在の高知城のある大高坂山に新たに築城しようとしたが、鏡川の治水に失敗し、天正19年に浦戸へと移り、本拠とした。(この浦戸城は以後約10年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで、長宗我部氏の居城であった。)
慶長4年(1599年)に病に倒れ、同年5月京伏見の館で61才の生涯を閉じた。
長宗我部元親の墓は、高知市長浜の天甫寺山の南斜面の森の中にある。(一族の墓は>>>

長宗我部元親公初陣の像
高知市長浜に建つ長宗我部元親公銅像。
長浜城決戦前夜、若宮八幡宮の社頭に陣をはり必勝を祈願したことから、没後400年に当たる平成11年にこの地に建立する。
力強く前に伸ばされた左手は、足下に広がる四国をつかみ取ろうとしている形に作られているそうです。
戸次川(へつぎがわ)の戦い

秀吉の軍門に降った後、長宗我部元親、信親親子は、秀吉から九州征伐の命をうけ、その先鋒隊として、豊後に赴く。大友宗麟を救うためこの地をたった土佐勢は三千、讃岐の仙石(せんごく)、十河(そごう)軍とあわせ六千余の四国勢は島津軍と対峙。豊後、戸次川(現在の大野川)に戦う。大激戦のすえ四国勢は総崩れとなり、我が軍は信親以下、七百余名の将兵を失う。
信親、享年二十二。
遺骸はかの地で荼毘に付し、高野山に葬る。のち、分骨し長浜、大甫寺(てんぽじ)に、さらに今は雪蹊寺境内にその臣達と共に眠る。
時に天正十四(十五八六)年十二月十二日。 長宗我部氏滅亡の端緒となり、土佐国の命運を分かったこの戦いを知る人は余りに少ない。 秦神社に祀る霊板を銅(あかがね)に写し、もって慰霊鎮魂の標(しるし)としたい。

馬防柵

長宗我部軍は長浜城を攻略したのち、浦戸城に立てこもった本山茂辰軍を封じこめるため、若宮八幡宮前から海岸線まで馬防柵を築きました。馬や兵の侵入を防ぎ、鉄砲柵としても効力を発揮したと思われます。


六地蔵・一領具足供養の碑
慶長5年の関ヶ原の戦後、土佐の国主は長宗我部氏から山内一豊に。
浦戸城明け渡しに際し「旧主のためにせめて一郡でも」と主張し頑強に抵抗したが悉く討取られ、抵抗をした一領具足273人の首は塩漬けにされ大阪の井伊直政の元へ送られた。その胴体を埋葬し後に石丸塚として祀られた。

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一領具足供養の碑

慶長5年関ヶ原の戦後 浦戸城明け渡しを拒んだ一領具足達は重役家臣団と対立して戦い物頭竹内惣左衛門始め273人が殺され ここに長宗我部400年の栄光の幕を閉じた この土地は一領具足の指導者吉川善介 徳井左亀之助 池田又兵衛 野村孫右衛門 福良助兵衛 歳岡彦兵衛 下元十兵衛 近藤五兵衛が常なる役所に集まり居て評定中を襲われて討たれた所で 首は他の者とともに大阪に送られ同体は石丸塚としてここに葬られた
 世にこれを浦戸一揆という


長宗我部元親が安芸国虎攻めにあたり、兵力増強に思いついたのが「一領具足」と呼ばれる農兵制度。
※一領具足とは、戦いのないときは田や畑を耕し、城から貝の音が聞こえて来ると、農具を放り出し、武器を手にとり出陣していく。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回るため、「一領具足」という呼称ができたそうです。

長宗我部元親公墓
←道路南側の標識。
標識の東側には観光バス駐車場の看板があります。→
↓反対側(道路北側)の塀には大きな文字の案内板があります。
長宗我部元親公墓

 長宗我部元親は、天文8年(1539)岡豊城に生まれ、戸の本の初陣以後次々と宿敵を降し、天正3年(1575)には土佐を統一、天正13年(1585)春には遂に四国全土を制圧するも秀吉の南征にあい、同年夏にはその軍門に降り、土佐一国に減封されました。
 元親は武略家としてのほか教養もあり、文化人としても評価が高く、内政面でも立法家として「長宗我部氏掟書」の制定や優れた検地記録である「長宗我部地検長」の作成など、数々の業績を残しています。
 慶長4年(1599)5月19日、伏見で病没、享年61、法号雪蹊恕三、火化の後遺骨は土佐に送られ、この天甫寺山に葬られました。この墓の形式を宝篋院塔といいます。
 今一代の英傑の眠る静寂のこの地にあって、瞬時の光芒を放ち、やがて歴史上から消え失せた長宗我部一族を想うとき、その哀惜の念止み難いものがあります。


長宗我部元親(1539〜1599)

戦国武将、父は国親。初陣は永禄3年(1560)22才の時長浜で
の本山氏との戦であった。以後15年間に本山、安芸、一条の群
雄を滅して土佐を統一、続いて10年間を経て四国を併せたが、豊
臣秀吉に降って土佐を保つ。翌天正14年(1586)豊後戸次川に
大敗後は、領国支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書制
定に当り、政治家としての面目を発揮したが、慶長4年(1599)
伏見に病死。この地に葬られた。

昭和56年3月 高知市教育委員会


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戸次川の戦において、薩摩勢の猛攻により元親の軍はわずか21騎となった。
武運もこれまでと馬を捨て敵陣に斬り込もうとしていた時、奇跡的に愛馬「内記黒(秀吉より拝領したと言われている)」が現れ、残された家臣一同「これぞ家運の尽きぬしるし」と元親を乗せて敵中を突破し、元親の命を救ったという逸話が残っている。
長宗我部元親の墓から南に少し歩いた所に愛馬の墓があるが、この内記黒の墓ではないかと言われています。

岡豊城
南国市岡豊町八幡岡豊山の岡豊城跡

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