自然美溢れる高知公園に建つ板垣退助像。

全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた明治15(1882)年4月、岐阜で遊説中に暴漢・に襲われ負傷した。その際、出血しながらも「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったが、現在は「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く知られている。

銅像の作者は本山白雲
天保8(1837)年4月17日 土佐藩士の長男として現:高知市本町2丁目で生まれる。
退助は元は通称であった。
幼名は猪之助。
諱(いみな)は初め正躬(まさみ)、後に正形(まさかた)と改める。
※諱(いみな)とは、両親や肉親、又は、目上の者のみが使用する生前の実名。昔は生前には口にすることをはばかった。
号は無形(むけい)が有名だが、如雲(じょうん)。
※号とは、学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名前。
位階勲等は従一位、勲一等旭日桐花大綬章、伯爵の爵位を持つ。
大正8(1919)年 東京都にて歿す。

夜の板垣退助像
板垣退助(1837-1919)
 近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1937)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874)1月、民選議院設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を設立して自由民権論を唱えた。明治14年(1881)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒濤の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
 明治20年(1887)5月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任ぜられること2回、晩年は政界を引退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919)7月16日、83才で死去した。
遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。

 最終更新日2010年5月 
自由民権運動の歴史や、立志社機関紙など詳しく知りたい方はこちらのHPがオススメ>> 高知市立自由民権記念館HPへ 

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